NOVELS 小説
- 第2話以降
第60話
女王の帰還
ブレイブの城にて工房の扉が閉ざされてから何日経ったのか……宮廷道化師のミルムはもう覚えていなかった。
水は差しいれている。食べ物も扉を細く開け、手が届くところに置いている。翌日、戸口の前に空の食器が置かれているため、生きてくれてはいるのだろう。
だが時々、工房から絶叫が上がる。手足を煮えた油に突っ込んだような、長く、苦痛にまみれた悲鳴が。
さらには激しくせき込む声が聞こえる。焼けただれ、干からびた喉の奥から血の塊を吐き出すような声が。
聞いているミルムのほうが卒倒しそうになる。
いったい建物の中で何が起きているのか……。
今すぐ確かめたい。だが怖い。
……最悪の状況を思い描いてしまう。ただの死ではない。あらゆる苦しみを一身に受け、あらゆる痛みで魂を切り刻まれたうえでの死。人の形を失い、尊厳すらもはく奪された無残な遺体があるのではないか、と。
ひたすら祈ることしかできないまま、いったい何日経ったのか……。
ふいに、ゆっくりと工房の扉が開いた。
「……た、だ、いま」
「……!!」
げっそりとやせこけたシャインが姿を現した瞬間、ミルムは言葉を失った。きれいに結んでいた髪はほどけ、肌はまるで何十歳も歳を取ったようにひび割れている。ただの疲労で、こうはならない。ひたすら高温の中に身を置き、どれだけ水を飲んでも汗になる間もなく蒸発していく……。そんな過酷な環境の中、不眠不休で作業し続けた弊害だろう。
四肢はまるでミイラのようだ。骨に皮膚が張り付くのみで、筋肉が全てそぎ落とされている。服で隠れて見えないが、胴体のほうはきっと、さらに目を覆うような惨状だろう。
「へ、いか……」
あまりにも壮絶な変貌に、ミルムの視界が曇った。とめどなく涙が零れ落ちる。
シャインの見た目は本当に素朴で、善良な女性なのだ。だがその双肩に背負ったものの重さを改めて思い知らされる。
自力で歩くこともできないのか、シャインはふらりと倒れ込んだ。慌てて駆けより、ミルムは息を詰まらせた。とぎれとぎれの呼吸はあまりにも弱く、細い。いつ、呼吸が止まってもおかしくないほどだ。
「み、すたーは」
「ここに」
シャインを支えるも、骨と皮だけになったような体の軽さに絶句するしかないミルムの背後で、ふと声が響いた。
ミスターメテオランテだ。
まっすぐにシャインを見つめ、彼は確かな足取りで近づいてくる。
「最前線の報告は常に受け取ってる。連中、まだ持ちこたえてるぜ。竜の野郎もまだ健在だが、少なくとも前線は崩れちゃいねえ」
「……うん」
「今にも死にそうな様子だが、連れてくぞ、レディ。お前がいなきゃ始まらん」
「そう、して」
シャインはひび割れた唇を釣り上げ、弱弱しくも確かに笑った。
「あなたに、しか、たのめない。……リーチ、たちだと、ね」
「オレだって休ませたいんだぜ、本当は!!」
「めいれい、ね。うちを、ひがしへ」
「ああ」
「これを」
シャインが懐に持っていた大きな包みをミスターメテオランテは受け取った。
(あれは……?)
布に包まれたそれは頭部ほどの大きさがある。それが何なのか、ミルムには分からないが、きっと非常に重要なものなのだろう。
ミスターメテオランテは包みをしっかり抱えつつ、それ以上に丁重にシャインの体を抱きかかえた。ほんの少しでも力加減を間違えば腕も足も折れそうな、ミイラのようなその体を。
「体力回復、気力回復、筋力回復、水分補給……回復系のジルパワーを持つ連中に頼んで、ありったけそろえてる。飲み込む力がなくとも、鼻と口を押さえて流し込むからな!」
「……うん」
このために残っていたのだ。勇気の国の象徴でもある女王を、戦場に届けるために。今にも死にそうな女王を、死地に送るために。
なんという罪深さ。
そして、なんという覚悟か。
「尽きかけてるジルパワーが回復できねえのは痛いがな。そいつはなんとかがんばってもらうしかねえ。途中、できるだけ休息は入れるから……」
「ああ、よかった。間に合ったー!」
そのとき、男性の声が響いた。死にかけの女王を運ぶという悲壮感あふれる現場に不釣り合いな、明るい声が。
ミルムが振り返ると、緑色の目とピンク髪の男性が息を切らしてかけてくるところだった。
「あっぶねえ!ここで間に合わなかったらオレ、何のために戻ってきたのか分からないところだったって!」
「お前さんは四天獅の……」
「おう、『翠眼』の二つ名を背負ってる」
驚くミスターメテオランテににやりと笑い、翠眼……クナラは彼らを見た。正確には、彼に抱えられ、今にも呼吸が止まりそうなシャインの方を。
「レリック、『アギュウス』を持って来たぜ。鍛煌所でトップアーケイニストが中心になって作り上げた弾丸も装填済みだ」
「おおっ!それって確か……」
「大災の竜がフリーダム辺境の地で吐いた溶鉄で作った代物だ。中にジルパワーをたっぷり詰めてある。鍛煌所の連中全てと……無論オレのも」
クナラは短銃「アギュウス」の銃口をシャインに向けた。女王に対して武器を向けるなど許されない暴挙だが、ここにいる者は誰も止めない。
これが最後のピースだ。
世界を救うため、皆が命がけではめたパズルの、最後の一枚。
「この弾丸をジルコンギアに向けて撃つと、中のジルパワーがギアに流れ込み、所有者に届くらしい。どういう原理なのかはさっぱりわからないが……」
「んなもん、あとだ、あと!全部終わったあとで、頭のいい連中が何かしら調べてくれるだろうよ!」
「ま、そうだな!じゃあ、やるぜ!」
ガンガンと立て続けにクナラはシャインの持つ魔導書に「アギュウス」を発射した。そのすべてがどう作用したのか、パッと見ただけでははっきりしない。
だが、今にも命の灯が消えかけていたシャインの頬に赤みがさした。途切れかけていた呼吸も深く、穏やかに戻っている。
これなら、きっと。
「すぐ全快するものでもなさそうだ。本当なら、ふかふかのベッドで一週間ほど療養すべき場面だろうが……」
「レディの意思だ。連れてくぜ」
「ああ」
「ミルム、後始末は頼んだ」
ミスターメテオランテは改めてシャインを抱え、控えていたミルムに言った。
宮廷道化師であるミルムは戦場へは行かない。だが彼女の意思を受け継いだ者たちが今、戦場で戦っている。
「…………」
ミルムは深々とお辞儀をし、クナラと共にミスターメテオランテたちを見送った。
空の向こうに遠ざかるその姿が見えなくなるまで、微動だにせず。
そして祈った。皆と、再び喜び合える日が戻ってくることを。
***
……ごう、と最前線に風が吹いた。
どこか甘く、胸を躍らせるような飴の匂い。
幻のように一瞬香り、消えていったが、その匂いは終わりのない戦いで疲弊した人々の胸に、再び活力を呼び覚ました。
「ぴょんだもの、やれるのは当然の事だぴょん」
ブレイブの一匹兎がグリフィンの背で跳ねまわった。驚異のジャンプ力を武器に、彼女は食料の供給から情報伝達など、多くを担っていた。
ふいに嗅いだ優しい風はへとへとに疲れた体によく効いた。
勇気が湧いてくる。まだまだ動き回るための、勇気が。
「ぴょん?」
陸地に築かれた拠点にて呼ばれたことを感知し、一匹兎は舞い戻った。
そこに、三人の青年がいた。
知る人ぞ知るサーカス団の面々だ。平時はオルフィニア大陸中を移動し、各地で芸を披露しているが、今は休業中。大災の竜討伐のための呼びかけに答え、ジルパワーを持つ彼らは前線基地に集った。
「もう一押しってところだな」
温和な顔立ちのアラン・ベッカーが言った。この戦場にあってどこか冷静さを保っているのは彼が研究にその身を捧げた男だからだろうか。
きっかけは「ジルコンに頼らずとも暮らせる世界」の実現を目指したことだった。だが次第に彼はジルコンやジルパワーを無効化するすべを探すようになり、ついにはその力を有するに至った。
彼のギアであるフラスコにいれた液体……それに触れた者は、液体が乾くまでの間ジルパワーが無効化される。
ジルコンが生活の基盤になっているこの世界では、危険視される能力だ。もし彼が液体の培養を試み、自身の影響力を拡大したならば、鞭打ち苦行者のように社会的な脅威になっただろう。
実際、彼はその研究を疎ましく思う者から、命を狙われてきた。社会不安をあおる危険人物だと誤解され、襲撃を受ける中でサーカスに逃げ込んだのが何年前のことだったか……。
そこでの出会いがアランの人生を変えたと言っていい。
「なら、オレらがやるしかねえんじゃねえのか!?」
鋭い目つきを楽しそうに輝かせ、同僚であり、友人のアレン・フリードが言った。水を使った曲芸を得意とする彼のジルパワーは「自身のジルコンギアであるフラスコにいれた液体の形を操る」というもの。
なんという偶然か、事情を抱えた彼らは「フラスコ」という同じ形状のジルコンギアを持ち、サーカス団で出会った。ジルパワーの性質は違うものの、彼らはサーカスで苦楽を共にし、互いに切磋琢磨して芸を磨いてきたのだった。
「オレらの力で竜をさらに弱らせる!そしたら四天獅様たちが決めてくれるぜ、そうだろう!?」
意外にも、多国籍の者が集うサーカス団で、彼らはブレイブ出身だ。リーチやレオたち四天獅の強さは子供のころからずっと聞かされ続けてきた。
「やろうぜ、アラン。オレらでよ!」
「ふむ、ならば策を……」
アランは顎に手をやり、考え込んだ。少しして、研究者然としたその瞳がきらりと輝く。
「なぁアレン、お前のジルパワーでこいつを竜に飲ませることはできないか?」
自らのフラスコを掲げて問う。何を言わんとしているかを素早く察し、アレンが「おお」と声を上げた。
「わかったぜアル!やってみる!」
ジルパワーを糧とする大災の竜に対し、「ジルパワーを無効化させる液体」を飲ませるのだ。ただ飲ませるだけではなく、飲んだ後の液体をアレンが操り、竜の体内で暴れさせれば……本来は食道から胃に落ちる液体をさまざまな器官に無理やり届けることができるかもしれない。
「国に残ってるミルム先輩の分も、オレらが爪痕、残さねえとな!」
「まあ、そうだな。恥ずかしい真似はできん」
宮廷道化師ミルムもまた、普段はこのサーカス団に属していた。闊達なアレンの先輩として多くの曲芸技術を教え、過激な思想家から命を狙われるアランに変装を教えた。いわば、二人に「生き方」を教えてくれたのがミルムだ。
自分は前線では役に立たないと判断し、国に残ったミルムの存在が二人を奮い立たせる。
「時々ふっと消えるところがミステリアスなんだよな、先輩……。まあ、どこで何をしててもいいけど」
「ああ、あの人が恩人であることには変わらない」
アレンとアランは口々にそう言いつつ、そろって意識を集中させた。
「…………」
一方、それを少し離れたところで見つめる男がいた。