NOVELS 小説
- 第2話以降
第39話
大災、襲来
不気味な天候だった。
重苦しい雲がどこまでも広がり、まるで分厚い蓋のように世界に覆いかぶさっている。風は生ぬるい湿度をたっぷり含みながらもどこか底冷えする冷気を含んでおり、波は不定期にゆらゆらと船をほんろうした。
風邪の引きはじめのような不気味な気鬱と、めまいに似た体幹のブレ。
各国の先発隊は隊列を組みつつ、ジルコニア通信装置にて互いの状況を確認し合っていた。
「……ああ、そろそろ『魔の海域』だ。そちら、様子は?」
『今のところ特に異変は……いえ、待っ……』
――ザ、ザザ……。
『なに……急……、……気を付け……!!』
「あ?どうしたッ!?」
急に通信装置にノイズが走り、ブレイブの船内にて「到達」の四天獅リーチは顔をしかめた。ジルパワーをこめて使う装置が不調を訴えるなど初めてのことだ。並走していたメテオランテ・ヒュドロの面々もいぶかっている。
……何かが起きている。戦いに慣れたリーチの感覚がビリビリと警戒を訴えている。
甲板に飛び出し、他の先発隊たちに注意を促したときだった。
――グルァアアアガァアアアアアアア!!
天を割るような咆哮が船を貫いた。
「な……」
……リーチは見た。百年前、世界を滅ぼしかけた元凶を。
すべてを壊し、薙ぎ払い、煮立たせて消失させる諸悪の根源を。
「……なるほど、大災の名にふさわしい」
リーチの唇から讃辞に似た言葉がこぼれた。人の限界を超えた異形を前にし、人が抱くのは畏怖の念。憎悪や恐怖が一瞬、消失する。
鐵<くろがね>のごとき輝きを放つ巨魁。煮える鉄のように赤々と光る双眸。銀色の爪と巨大な尾を持ち、大災の竜は上空から船に乗った人々を睥睨した。
――グルァアアアガァアアアアアアア!!
圧倒的な重圧が落ち、人々の足を甲板に縫いとめる。誰も動けない。視線をそらさず、悲鳴を上げないように歯を食いしばるのが精いっぱいだ。
胸に去来した畏怖の念が徐々に変貌し始める。恐怖、後悔、絶望。
えりすぐった精鋭たちですら、「そう」なった。
――ニタリ。
どの船もが重く沈黙するのを見下ろし、竜がふいに笑ったように見えた。薄く口を開き、大きく喉を上下させる。
(……させちゃいけねえッ!)
リーチはとっさにそう感じた。竜の姿を見たことも、その動作を見たことも初めてだったが、本能が危険を訴えている。
……何かが来る。
「溶鉄のブレスか……?」
自分でつぶやき、ぞっとした。逃げ場のない大海原で溶鉄を吐かれたら、先発隊は全滅だ。船は沈み、人間は煮えたぎった鉄で溶かされる。かろうじて避けたとしても、海に投げ出されれば同じことだ。いずれ沈んで藻屑になる。
「全員、『大陸の方へ突撃』せよッ!」
リーチは声の限り、叫んだ。
さがれ、ではなく、来た方へ「迎え」と表現したのは自身のジルパワーを最大限に活かすためだ。追い風を生み出すジルパワーをこめ、リーチは持っていた愛用の大鎌を一閃した。
「アルテナ、合わせろ!」
「くっ……ハイ!」
リーチの船と並走していたメテオランテ・ヒュドロの隊長アルテナ・パラストリアが素早く動いた。自身のジルコンギアである大楯をかざし、彼女はジルパワーを発動させる。
グン、と一気に先発隊の一部が加速した。風だけではこうはいかない。まるで巨大ななにかに押されたように。
これがアルテナのジルパワーだ。守りに特化した彼女のそれは、「斥力」。向かってくる「力」を退け、拒絶する。リーチが振るった風を受け、反発することでより一層船を加速させたのだ。
ヒュドロではなく、近くにいた三国の船の一部も後退する。
……だが、すべてではない。取り残された船はまだ、この戦場に取り残されている。
「すべては救えんか……ッ!」
「まだだよ!」
そのとき、小さな影が弾丸のように竜に肉薄した。各国の船を足場にして勢いをつけ、誰かが竜の眼前に飛んだ。
「ボクが時間を稼ぐ!全員、退避!」
ピースフルの新英雄ヴィントだ。ここが初の大舞台とばかりに高々と舞い、腰に差していた舶刀を振るう。
巨大な竜に対し、その武器はあまりにもはかなく映る。まるで巨像を針で倒そうとする蟻のようだ。
「な、なるほど。あれが彼女のギアなんだな」
誰かがつぶやいた。きっとそのはずだと自分自身に言い聞かせるように。そうでもなければ、あまりにも無謀すぎる。だが……。
「いや……違うんじゃないか……?」
誰かがか細い悲鳴のようにうめいた。ヴィントは俊敏に竜の攻撃をかわしている。船を足場にして飛び上がったあとは竜の腕や背中、首を駆けあがり、懸命にその目を狙っている。視力を封じれば、皆が逃げる時間が稼げると考えているのだろう。
それは正しい。確かに正しいのだが。
「なんで、ジルパワーを使わないんだ……?」
ヴィントの奮闘を見守る誰かが、当惑した声でつぶやいた。
***
ヴィントは人生の大半を一人で生きてきた。
幼いころは優しい母がいた。自由の国フリーダムでは、力のない者が損をする。それでも誕生日には質素だが温かい料理が食卓に並び、心を込めたプレゼントをもらった。新しい衣服を頻繁に買い与えられるわけではなかったが、衣服も寝具もいつも清潔に保たれ、母はいつも笑顔だった。
幼いヴィントが何かを話すと、母は作業の手を止めて聞いてくれた。何か手伝いをすればとても喜び、感謝の言葉を伝えるとともに褒めてくれた。
愛されていた。その実感に包まれ、ヴィントは毎日、幸せだった。
――だがある日、突然その生活は終わりを告げた。
幼いヴィントが目覚めると、家はもぬけの殻だった。母はおらず、いつまでたっても帰ってこなかった。
家の中が荒らされた様子はなく、誰かが怪我した痕跡もなかった。
……母は、無理やり連れさらわれたのではない。
ならば帰ってくるはずだと信じて一日待った。二日待ち、三日待ち……二週間後、半死半生で倒れていたところを保護された。
そして今、「ここ」にいる。
(変なの)
大災の竜に舶刀を振るいながら、ヴィントは首をかしげた。
巨大な厄災を前にしても、恐怖で体が固まることはない。竜の動きはよく見えるし、はるか下にいる船の様子も視界の隅に入っている。
彼らが逃げるまで、時間を稼ぐだけだ。固い竜の鱗に刃は通らず、どんどん刃こぼれしていくが、この場さえしのげればいい。
(変なの)
いったん竜を退けた後、自分はThe Holeに向かいたいと考えていた。いなくなった家族の手がかりがそこにあるらしい。
そう聞いたため、自分は教皇の控える後方の連合軍ではなく、先発隊に入ったのだ。少しでもThe Holeに近いところにいたいと思ったから。
(変なの)
だが……だがおかしい。
戦闘中に、なぜ自分はこれほど冷静に思考しているのだろう。なぜこれほどまでに竜の動きがよく見えているのだろう。まるで、スローモーションのように。
これはあまりよくないことだと頭の奥でパチパチと声がする。
命の灯が消える予兆。
どうあがいても回避不能な死を前にして、なんとかならないかと本能が試みる悪あがき。
……目に映るすべてがゆっくりと見え。
……妙にいろいろなことが頭をよぎり。
そして、その先に待つのは、避けようのない、暗黒の。
「ヴィント!!」
誰かが遠くで叫ぶのが聞こえた。
同時に、目の前に巨大な爪が迫った。
(ああ……ボクは)
……ここで、死ぬのか。
焼けるような熱と痛みが、ヴィントの顔面を貫いた。