NOVELS 小説
- 第2話以降
第44話
教皇
荒れ狂う大海にて、その声は静謐な湖のごとく涼やかに響いた。
ひるがえるはピースフルの旗印。船首に教皇が立っている。
「未来を担う星々の光……その輝きは、寄る辺なき海でも確かなしるべとなりました」
教皇はすい、と片腕を前に出し、大災の竜を見据えた。決して声を荒げるわけではなく、激情を向けるでもない。……それでも彼女を前にして、大災の竜はぎくりとしたように動きを止めた。
「皆、わたしたちのジルコンの光があるうちに逃げなさい」
教皇は竜から目をそらさず、周囲にいる人々にそう告げた。
「今はそのときではない。……仲間を集め、策を練り、想いを高めて挑むのです。わたしたちがその時間を稼ぎましょう」
「教皇……」
「最後の戦いの日のため、あなたたちの盾になることがこの教皇の務めです」
時を同じくして、急に天候が変化した。真っ黒な雲が彼方より押し寄せ、風が重い水分を含み始める。高波がわき、やがて大粒の雨が各船の甲板に落ちた。
……嵐だ。
「みんな、一人でも多くの兵を救って!」
同時に戦場にたどり着いたブレイブの女王シャインが声を張り上げた。
「動けない者には手を貸して!どの国出身でも構いません!うちらは皆、仲間ですわ。身近な大型船に乗るのです!」
「十字の方向、小舟に負傷者が乗っている!」
グローリーの船からは議長ウィリアムの声が響いた。離れた場所にいる人々の「声」を拾う彼は耳をすまし、水面に漂う小さな声を全て拾い上げていく。つい先ほど、先発隊の状況を本体に伝えるためにジルパワーを酷使したせいか、ぞっとするほど顔色が悪い。それでも彼は力の行使を止めない。ここで自分が休んだ瞬間、救えない命があることを分かっているのだ。
「手当が必要な者はブレイブの船に!こちらに、ピースフルの治癒者オリシスが身を寄せてくださっているわ!」
シャインが叫んだ。
気づくと、ピースフルの者たちは皆、ブレイブの船に移動していた。英雄騎士団の者も、鞭打ちマッスル騎士団の者も皆、絶命しそうなほどの悲壮感を湛えている。彼らは瞬きも忘れるほど、まっすぐピースフルの船を見つめていた。
……その船に乗るのは教皇のみ。
ピースフルの船は今、彼女専用の棺になった。
――グルウウウウウウウァ……!
大災の竜が低くうなった。
そして赤黒い口内を大きく開けた。
そのとき、海に集う人々は見た。船首に立つ教皇の体から、膨大な量のジルパワーが吸われていくのを。
実際に目視できる光ともまた違う、不可視の光。人々の感覚でそれは、澄んだ青や緑、黄色や赤など様々な光として捉えられた。
……パキ……キチチ、カキッ……。
ジルパワーが吸われる教皇の体から異音が聞こえた。衣服から出ていた教皇の手足が、首が、顎が……徐々に宝石のように変わっていく。
教皇のジルコン化。
胴体から徐々に、教皇はジルコン鉱石に変貌していく。
このように変化した者は誰もいない。教皇だけが「こう」なった。この変化はいったい何を意味するものか……。
大災の竜の体が肥大化し、毒々しい体躯の色がより濃くなる。
彫像と化した教皇の体がぐらりと倒れた。荒れる波に翻弄されるように、その体が船首から落下する。そのまま教皇は海へと落下し……。
「教皇猊下、今、お助けいたします!」
そのとき、彼方より迷いのない声が飛び込んできた。海面を二人の人間が走ってくる。
……誰もが目を疑うが、現実だ。
一人は「教皇の元に、射られた矢の速度で走る」ジルパワーを持つ修道院長プレア。効果が限定されている能力だからか、その条件を満たしたとき、彼の能力は無類の強さを発揮する。
そして彼に担がれる状態で、もう一人短く髪を刈りこんだ女性が同行していた。
彼女はピースフルにある「静寂の湖」を管理する神官、静。移動や呼吸を含め、あらゆる水の制約を受けないジルパワーを持つ。
「プレア様、大災の竜はその巨大な体躯を細い脚では支えきれません。空を飛んでいる間は無敵でしょうが、ひとたび地に落とせれば、巨大な的に等しいかと」
彼女はプレアに抱えられながら、背負っていた巻物を取り出し、読み上げた。彼女が所有している限り、その手の書物も水をはじく。
「まずは竜を引き離してください。あれ以上教皇様のジルパワーを吸わせてはいけない!」
「委細承知!」
水面を走れる静の能力を借り、プレアは大災の竜に突撃した。大剣を構えた状態で。
――ガキイィン!
猛スピードの威力が武器の切れ味に上乗せされる。
激しい音が響き、大災の竜の鱗が飛び散った。思いがけない衝撃に、竜はたまらず、空へ飛びあがった。
「猊下!」
海へ落ちる寸前の教皇をプレアが保護する。海面で態勢を整え、プレアは教皇と静を背負ったまま、ピースフルの船へ登った。
だがそこに、なおも竜が迫る。まだ足りないとばかりに、竜は大口を開け、再び教皇からジルパワーを吸い始めた。側にいたプレアと静もその攻撃範囲にいる。
「ぐううっ」
「あああっ!」
全身の奥から生命力そのものを吸われる激痛に、二人がうめく。
「させないよ!」
そこに新英雄のヴィントが駆けつけた。自身の操る風に乗り、ヴィントは竜に攻撃を仕掛けた。プレアの落とした武器を受け止め、先ほど鱗がはがれた太もも辺りに大剣を振り下ろす。赤黒い肉がはじけ、どろりとした血が舞った。
――グアアアアアアアッ!
竜の瞳に怒りの炎が宿った。教皇のジルパワーを奪うのをいったんやめ、竜は不届きな人間に裁きを与えるように、ヴィントめがけてガバリと巨大な口を開く。
「――っ!」
その奥に巨大な熱源を感じ、ヴィントは本能的な死を悟った。
……来る。
溶鉄のブレスが。
逃げるには時間が足りない。ヴィントが激痛を予期したまさにそのときだった。
「行方不明か~ら~の~、全軍ピンチの時に駆け付けるオレ、かっこいい!」
場違いなほど明るい声が戦場に響いた。