NOVELS 小説
- 第2話以降
第35話
歴史の語り部
湖畔の宿屋は静まり返っていた。客だけではなく、以前、巡礼の際にプレアが会った従業員もいない。室内を見回すプレアの視線に気づいたか、宿屋の主は嫣然と笑った。
「リブルは英雄騎士団のほうの仕事や。なんや、えらい大がかりなことがあるんやろ?」
「ああ……なるほど」
オリシス率いる英雄騎士団と鞭打ちマッスル騎士団は今頃、遠く離れた海の上だ。オルフィニア大陸の最東端で行われた会合の後、教皇を守りながらThe Holeを目指して航海していることだろう。宿屋の主の下で働いていた女性もそちらに駆り出されているようだ。
「こない、世界がわぁわぁにぎやかになるんは久しぶりや。『――』の言うたことはほんとやったんやね」
「……今、なんと?」
一部分だけ、耳をふさがれたように女将の声が聞こえなくなった。プレアが聞き返すと、女将は意味ありげに、目を細めてほほ笑んだ。
「……『――』や。……せやけど、よう聞こえんかもしれんね。教皇様が言うてはったんよ。彼は……『彼らは』かもしらんね。……彼らはその存在と引き換えに竜を討った……。せやから、名前も顔も、なんもかんも世界からのうなってもうたんやって」
「ちょ、ちょっと待て。お前は何を言っているのだ」
プレアは動揺し、声を荒らげた。静まり返った宿屋の中が、突然正体不明の洞穴になったような錯覚に陥る。
宿屋の主から敵意を感じたわけではない。彼女はプレアを迎える前も後も、自然体で話している。ただ彼女の語る話が……その話がプレアの信仰心を傷つける。心臓を突然撫でられるような恐怖心。
(竜を討った者たち、だと?)
ならば、宿屋の主が語ることは本当に百年前、竜を討った英雄たちの話なのだろうか。
竜を討つことと引き換えに、名前も顔も世界から消えた、とはどういうことなのか。
「なぁ、ワレは不思議に思たこと、あらへん?今、この国には家も残っとるし、英雄たちの子孫もおる。『血』自体は続いてるんや。せやけど、竜を討った英雄その人の存在は今、消滅しとる。サラはんだけなんよ、知られとるんは」
「……っ、おい!」
教皇ジルダーリア・サラII世の本名を気安く呼ぶ宿屋の主にプレアはぎょっと目をむいた。なんという不敬か、と叱責しようとしたが、それより先に女将はつかみどころのない声で軽妙に笑う。
「今こそ、あんなふうになってもうたけど、戻ってきたころのサラはんはもっと普通やったんよ。あの頃はワテも若かったさかい、こない姉さんがおったらええなあ、思ったもんや」
「……お前の話を聞いていると混乱してくる。さっきから何の話をしているんだ」
「百年前なぁ……多分、ワテは生きとったはずや。……せやけど覚えとらん」
「覚えていない?」
「ワテが覚えとる最初の記憶は、滅びかけた大地に立つ幼いワテと、The Holeの方から戻ってきたサラはんの姿だけや。見たとき、その人が『サラ』言うお人なんは分かった。けど、ワテがサラはんとどんな関係やったのかも、それまでの記憶もすっぽり抜けとった」
「……なんと」
「それはワテだけやのうて、みんなも同じやったわ。最初はみんなまっさらで……長い時間をかけて、ゆっくり思い出せるようになったんやわ」
「世界中で、大災を生き延びた者は皆、記憶を失っていたということか」
「竜に吸われた。……昔、サラはんがそう言うてはったわ。大災の竜は何らかの方法で、人々から記憶を奪ってもうたんやって」
にわかには信じがたい話だ。
だが宿屋の主にそう言われ、納得した点もある。
……この「世界」には大災以前から現存する書物や記録がほとんどない。
それまで残っていた書物の類が大災で焼失したとしても、普通ならば生き残った者たちが自らの知識を後世に残していくだろう。それがないのはなぜなのか、長年の謎とされていた。
(だが、世界中の誰もが記憶をなくしていたのならば……説明はつく)
一度「白紙化」した世界。
歳を重ね、ようやく誰かが思い出したことのみが後世に伝わっていたということか。
「不思議と、日常生活を送ることはできたんやわ。農具の使い方も、家の建て方も、文字の読み方も知っとった。ワテらは己が何者かも分からんまま、近くにおった人たちと生きることにした」
「……理解できん。いや、否定ではなく、言葉通りの意味で」
「ふふ、分かっとるよ。……時間と共に少しずつ記憶を取り戻していくことに気付いたワテのジルパワーが覚醒したんはそのころや。『長生きしとったら、色々思い出す』……ほな、ワテはできるだけ長く生きるんや、てな。生きて生きて生きて……できるだけ思い出して、のちの世に伝えたらんとあかん」
「その一心で、あなたは若返るジルパワーを得たということか」
自分でも現金だと思ったが、無意識に宿屋の主を呼ぶときの二人称が「お前」から「あなた」に変わっていた。今まではうさん臭く、正体不明の不審者だと思っていた者のひたむきさに触れ、自然と背筋が伸びる。
プレアの視線を受け止め、宿屋の主は肩を揺らして笑った。
「宿にお客がおるときだけ、やけどな。若返っとる間は本来の老化が止まる。お客が帰ったあと、再びワテの体は老い始める。その繰り返しで、気づけば百年生きとるわ」
「ならばあなたは本当に大災を……」
「経験したはずや。せやけど、これだけ時間をかけても、そこんとこの記憶はよみがえらん。『大災の竜が現れ、英雄が倒し、世界に平和が訪れた』、ていう今伝わってる神話はすべて、昔サラはんが語ったもんや。各地に残っとる『英雄にまつわる逸話の残る土地』や、ふんわり伝わっとる英雄の話なんかもな」
「教皇猊下が?」
「サラはんはワテらと真逆や。時間をかけることで思い出していくワテらと違い、サラはんはどんどん忘れていく。それが呪いなんか、まったく別の何かなんか、ワテにはよう分からへん。ただ大災のあと……なんや、くるくる忙しそうに働いてた時期があった気がするわ」
「ど、どういうことだ?」
「ワテもぼんやりとしか覚えてへんのやけど……なんや、大災の竜に襲われて生き延びた連中はえらい錯乱してたんよ。誰彼構わず襲いかかったり、己のこと傷つけ始めたり」
「…………!!」
「そんな連中を治して回ってたんがサラはんやったわ。額の辺りに手ぇ当てて、なんやごにょごにょしたら落ち着いたような……あれ、なんやったんやろ?」
まさにプレアが聞こうとしていたことを、宿屋の主はさらりと言った。
(錯乱して他人に襲い掛かる……。ロゼッタと同じ症状だ)
ならばブレイブの竜騎士団長ロゼッタも消息を絶っていた数か月の間に大災の竜と遭遇し……仲間同士で殺し合っていたのだろうか?コミッショナーの船を襲ったとき、ミスターメテオランテたちの姿が確認できなかったのは、すでにロゼッタの手にかかっていたのか?
(いや、まだ決めつけるのは尚早だ)
「なんや怖い顔して。……なんかあったみたいやね?」
「まあ……。だが知りたいことは大半知れた。感謝する」
「そ?お役に立てたなら何よりやわ」
宿屋の主は深く追求することなく、話を流した。そしてあわただしく帰ろうとするプレアの背中に、とんでもない爆弾発言を放った。
「せやせや。ワレ、修道院長やったな?後で言うとこ思て、すっかり忘れとった」
「……何か?」
「ワテは長生きやけど、不死やあらへん。不慮の事故で死んでもうたら、長年かけて思い出したことも全部のうなってしまうやろ?二十年ほど前、修道院図書館に行ったとき、書き留めておいた書物を地下書庫に置いといたんやわ」
「はああ!?」
「確か『大災の記録書』てタイトルつけて、適当な棚に突っ込んどいたわ。必要なら、好きに持ってってかまへんよ」
「なぜそんな重要なことを今まで黙っていたのだ!」
「そない怒ることあらへんやないの。忘れとったんやから、仕方あらへんやろ」
けろっとしている宿屋の主を見ていると、力が抜ける。声を荒げた自分が大人げないような気になってくるが、客観的に見てもプレアに非はないはずだ。
「……失礼する!」
これ以上ここにいては精神衛生上よくない、とプレアは踵を返した。今すぐ図書館の地下に潜り、宿屋の主が言う書物を見つけ出さなければ。
(それに、皆に伝えなければならないこともある)
――錯乱状態に陥った者を教皇が治せた。
まだ具体的な方法は不明だが、同士討ちを防ぐ手段は残されているのだ。
それを各国に伝えるべく、プレアは大急ぎで来た道を引き返した。